新幹線の高架沿いに広がる住宅街。
道路は広く、家は新しく、庭の手入れもそこそこされている。一見すると、ちゃんと暮らしている人たちがいる街だ。ですが、どこか“気配”がない。朝も昼も夜も、生活のリズムが見えてきません。よく聞く話として、このあたりは新幹線の用地買収や開発にともなって、まとまった現金を得た家庭が多いという。土地を売って家を建て直し、車を入れ替え、それなりの暮らしをするには十分な資金が一気に入った。
だが…それを得たのは親世代だ。
その後を引き継いだ2世・3世の世代は、その富を生かすのではなく、消費しているように見えます。もちろん、目に見えないところで何かしら活動している人もいると思います。ただ外から見る限り、社会との関わりや、この地域での“役割”を担っているようには、あまり感じられない。
働いているのか、いないのか。
収入は何によって得ているのか。
周囲との関係はどうなっているのか。
そこに住んでいるのに、“地域を支えている感じがない”のです。こんな家々が何軒もある。そしてきっとこれは、この町だけの話じゃない。“過去に得た富の余熱”で暮らしている層が、地域に、ひっそりと、確かに存在しているのではないでしょうか。
支えることなく、消費だけしている。
何かを産み出すでもなく、守るでもない。かつて得た資産を、じわじわと減らしながら静かに暮らしている。パージ(排除)そんな強い言葉は使いたくない。むしろ、そうした“何もしなくても困らない”環境があること自体は、ある意味で幸せだとも思います。ただ、それでもやっぱり感じてしまうのは、この先の社会を支える人たちの少なさに、漠然とした不安です。そして彼らがいずれいなくなる存在であることは、本人たちもおそらく気づいている。社会は、見えないバランスの上で成り立っている。
誰かが動いて、誰かが支えて誰かが引き受けている。でも今は、“支える側”があまりにも偏ってきている気がするのです。少数の人が地域を支え、動かし集まりをまわし、税金を納めている。一方で多くの人が消費し、何も背負わずにいる。それで、本当に社会として回っていけるのだろうか?
「富があるように見える家」が、
「何かを支えている家」であるとは限らない。
そこに住んでいる人が、社会に必要とされているかといえば…正直分かりません。
これはきっとどの地域にもある光景だと思う。
外からはきれいに見えるけれど、中に流れているものは、どこか“止まって”いる。前には進んでいない。むしろ過去の富を削って延命しているように見えるのです。
そういう場所が、今の日本には少しずつ増えてきているのかもしれません。
「新幹線と高速道路を通せば、人と金が動く」
田中角栄の“日本列島改造論”は、たしかに当時の地方に夢を与えた。
だけど今、家の中で投資とゲームに時間を使う2代目や3代目を見ると、あの改造は本当に“人”を育てたのか…そんなことを思ってしまう。