2000年代の前半、私はレースに情熱を注ぎ込んでいた。その頃の日本の経済は確実に冷え込んでいた。
2000年にITバブルが崩れたことで景気は失速し、私たち地方のような、若者の収入は伸びなかった。日銀は2001年に量的緩和に踏み込んだが、金利を限界まで下げても経済が動かない…そんな時代でした。安いが収入も少ない…社会がそんな空気でした。
当然ながら、影響はレース業界にもそのまま直撃した。国内の二輪販売は90年代から半減し、メーカーのフトコロが厳しくなった。
レース界全体の参加母数は減り、地方選では若手が激減し中間層と、ベテランが細く残るという“空洞化したピラミッド”になります。
私が感じていた「静かだ」「若手がいない」という違和感は、単なる主観ではなく、当時の日本社会の縮小そのものだったと思います。
■私自身の環境もまた、時代と同じ方向に揺れていた
勤めていた会社は潰れたわけではないが、元売りに吸収される形で経営が大きく変わった。のちに東北全体の店舗運営をまとめる大きな組織になります。
一旦退職金が出て、抱えていた売掛金や借金を返せたのは助かった。が、現場は相変わらず厳しかった。
「結果より過程を重視」という空気。
みなし残業は“みなし”のまま。実質の拘束時間は長く、ほっとけば朝までやる勢い。これじゃ、レースのためのトレーニング時間を確保するのが難しくなっていく。「この仕事…辞めよう」29歳の微妙な年齢、プロになるわけじゃない。稼ぎもない活動に全フリするのか⁉︎ ここまで来ると“やるかやらないか”後悔するなら…“やって後悔した方いい”と思ったんです。(今だから言語化できるところ)
本職と夜はコンビニアルバイトで補っていた。二本足打法だったせいか、不思議と離職への恐怖はあまり感じませんでした。忘れもしない、退職後に届いた市県民税の納付書を見て、「こんな税金があったのか…」と、自分がいかに社会を知らないまま働いていたかを実感した。
半年ほど夜バイトのみで生活したが、レースを続けるためには稼ぎが欲しい。そこで工場の派遣に飛び込んだ。ビックリしたのは驚くほど安い給料。
2004年、日本は“人余りの時代”だったのだと、後になって理解した。
派遣先にサポート企画書を提出したことすらある。
今思えばあの冷え込んだ日本経済の中で、そんな話が通るはずもない。もちろん空振り。
一つの会社だけに期待していたこと自体、無理がありました。当時の私は、「誰かがなんとかしてくれるだろう」「現実から逃げたい」「どうせ自分なんか…」
そんな弱さを抱えながらも、どうにか走り続けようとしていた。
■とは言え、私は夢に突っ走った
当時の私には“走りたい情熱”があった。カッコいいからやりたいことがあり、目指す夢があり、その情熱のほうが時代や社会の空気よりも大きかったのです。
今振り返れば、あれは盲目的な社会感覚だったのだと思う。景気が悪いとか、二輪業界が縮小するとか、そんなものはほとんど見えていなかった。というか、見ようとしなかった。
情熱だけで突っ走れる時期は人生で多くない。2000〜2005年は、私にとってまさにその貴重な時期でした。
でも社会を知らず、自分のキャリアも曖昧なまま、「稼がなきゃ」「でも走りたい」「でも時間がない」と、捻れた努力をしていました。
■2000〜2005年は、時代と自分が重なった5年間だった
今になり、数字やデータで答え合わせをするとよくわかる。
若者の収入は細く、二輪市場は縮小し、メーカーの個人サポートは消え、地方選は空洞化し、日銀が異例の緩和を続けても経済は動かなかった。
私がレースに向き合ったあの時代は、“日本全体が縮んでいた5年間”、ちょうどそのど真ん中だった。
環境自体が歪んでいた。だから今は、がむしゃらに前へ進むだけではなく、時代を読み、社会の流れを感じながら、自分のライン取りを選び直していきたい。
あの頃の情熱と今感じる事、両方を持てる52歳の今だからこそ、これからの生き方がある気がします。
