『自己検証・危険地報道』
安田純平さんの本を読みました。
私は中東に特別な関心があったわけではありません。ニュースで戦争や人質事件を見ても、「大変じゃん」と感じるだけでした。自分の生活とはどこか切り離された出来事として受け止めていた。
これは私だけではなく日本全体に、「知らなくても生きていける」という空気がある気がします。中東、アフリカ、遠い国の紛争、遠い距離感。
私自身もその側の人間だった。
○きっかけは、海外ドラマだった
今回、図書室で 安田純平 さんの本を手に取ったのは、ちょっとしたきっかけからだった。Apple TVで、中東を舞台にしたドラマを観ていた(テヘラン)フィクションではあるが、これまで意識していなかった地域に、少しだけ引っかかりが残った。「中東の現実ってどうなっているんだろう」そんな軽い気持ちで、たまたま見つけたこの本を借りた。
○拘束は、突然の出来事ではなかった
本を読んで、まず思い込んでいたイメージが崩れた。拘束というと、武装組織が突然現れて連れ去られる…。そんな場面を想像していた。
でも、実際はそうではなかった。現地のアテンド、知り合いだと思っていた人物に付いて行ってしまった。密入国的な特殊な状況。場所が違えば、判断基準もずれてくる。「この人は大丈夫だろう」という感覚が、少しずつ積み重なった結果。ほんの少しの判断ミスで命運を分けてしまう。
読んでいて、「自分だったらどうだっただろう」と考えずにはいられなかった。
○捕まった瞬間に始まる、自己責任論
もう一つ強く引っかかったのは、日本社会の反応です。捕まった人に向けられる言葉は、驚くほど早く「自己責任」に変わる。
「そんな危ないところに行くからだ」「自業自得だ」ムラ社会的というか、調和を乱した存在として扱われる感じ。守る対象ではなく、距離を取る対象になる。これは、中東への関心の低さとつながっていると思う。遠い場所だから、想像しない。想像しないから切り捨てられる。ある意味とても日本人的な一面。
○政府が見ないなら、誰が伝えるのか
危険地報道の会の方々の文章を読んで、腑に落ちたことがある。日本政府は、現地情報を積極的に知ろうとしない。だからこそ、ジャーナリストが現地で見たこと、聞いたことを国民に伝える意味がある。それを抑えることは、「国民は知らなくていい」と言っているのと同じだ。でも日本には、「知らなくても困らない」という空気がある。私自身も、その空気の中で生きてきた。
○日本は、対応の型を持っていない
海外では、記者が拘束された場合、政府とメディアが連携する国も多い。役割分担や、最低限のマニュアルがある。一方、日本はどうだろう。場当たり的で、バラバラで、感情論が先に立つ印象が強い。
90年代までは、戦乱地に入る記者やNPOが「中立」と見なされることもあった。しかし今は違う。身代金や交渉材料として扱われる存在になってしまった。
それでもSNSやスマホの時代になり、「外からの情報だけでは足りない」「もっと奥に行かないと意味がない」という圧力は強まっている。
危険は増し、期待も増す。この矛盾の中でジャーナリズムは揺れている。
○見捨てられたように感じた事件
過去に殺害された日本人ジャーナリストの話。重たい気持ちになった。あれは、日本社会が「もう仕方ない」と静かに背を向けた結果だったのではないか。自分も“しょうがないよね…”そんな感情が当時ありました。
怒りでもなく、陰謀論でもなく、「関わらない」という選択。その空気が、今もどこかに残っている気がする。
「なぜ、何の犠牲にされたのか」と後藤さんの死の背景について詳しく考察した結果、「対テロ戦争の犠牲」などと指摘するとともに、「日本社会の民主主義の艦職さの犠牲」と喝破。「ジャーナリストが危険を冒してまで紛争・戦争地域の取材をすることの社会的意義についての理解が国民の間でまだ十分なレベルに達していない」と問題提起している。
本書終章より
○知らないままでいいのか
この本は、明日や一年後の自分の生活に直接影響するものではない。それでも、ニュースの見え方は確実に変わった。報道がなければ、人は関心を持たない。関心がなければ、考えない。インターネットがあっても、自分で取りに行かない情報は、存在しないのと同じだ。危険地に行くべきか、行かないべきか。そんな単純な話ではなく、
「知ろうとしない社会で、本当にいいのか?」
この本は、そんな問いを投げてきました。
わかりやすく4コマ漫画。

Bappa Shotaさんも、未知の世界を伝えてくれるジャーナリストだと感じています。